【ネタバレ含】シン・エヴァンゲリオン 劇場版 𝄇 感想

もう一週間以上前になりますが、ファーストデイを利用して『シン・エヴァンゲリオン』を観てきました。
その感想を書きたいと思います。

既に公式からネタバレ解禁令が出ていますが、まぁわざわざ垂れ流しておく意味もないですし、
他の記事同様にネタバレ回避用の折りたたみを入れておきます。
つっても内容どうこう・映像どうこう言うような感想にならないような気がしていますが。

 

 

 

 

 

先に断っておきますが、以下は全て「私の場合」という注釈が付きます。
決して "本作を観た全て(或いは大多数)の観客に当てはまる" という意図では書いておりません。

 

 

ということで本題。

このブログに限らず、私がアニメやらの感想を書く時は、だいたい物語か映像かキャラのいずれかにフォーカスして(或いは全部ひっくるめて)書くことが多いんですが、本作は、何となくそういう方向性からの感想が思い浮かばない作品で。

勿論、円盤や配信の映像が手元になく、気軽に見返すことのできない環境だからってのもあると思いますが、それ以上に感じたのは本作が持つ独特の「文脈」の重さでした。

カッティングやアングルを分析したり、設定から紐解いたり、そういう観賞もあって然るべきだし、実際私も鑑賞中はそういうモチベーションを持っていたんですが、いざ終わってしまうと「エヴァンゲリオンが終わった」という圧倒的事実の重さに殴られてしまうというか。巷では「私とエヴァの出会いは○年前~」みたいな感想を揶揄する風潮もあるけど、そういう書き出しになってしまうのも頷けるというか。

 

屈指の特撮オタクでありアニメオタクでもある庵野秀明が、方方の名作から引用してきて、自作のメッセージ性に厚みをもたらすのは周知の事実だろうけど、そういった大量の引用・オマージュもまた文脈の強さ・太さを補強する要因になってるんだろう。この引用やオマージュをきちんと物語に落とし込んでいる、庵野の作家としての手腕もやっぱり凄いんだけども。

 

内容の中で一つだけ触れておきたい所があって、それが終盤のシーンに於ける、ミドリとサクラのアレ。
まぁ割と賛否両論な感じな印象があるが、個人的には何だかんだ必要不可欠であると思った。アレがなければ "シンジくんが身内に甘やかされてる" という状態を脱することは出来なかっただろうし。ミドリの方が先に落ち着いて、最後のトリガーを引くのがサクラ、というのもまた良い。サキエル戦から始まったサクラとエヴァの因縁を考えると、最後に引き金を引くべきなのは彼女しかいないからだ。サキエル戦後のその役割はサクラに代わってトウジが担ったが、その "暴" を受けるシンジの姿勢だって、26 年前と今とじゃきちんと変わっている。大人になっている。面白いのは、別にこの場面でシンジくんが覚醒したというわけじゃなく、この時点では既に腹を括り終えているという点だ。

本作でも Q と同様に、シンジに対する容赦ない描写が結構続く。第三村でのアヤナミ(仮)との残酷なまでの比較に、アスカからのレーション暴力、アヤナミ(仮)の死に、ヴンダー搭乗時のテーザーガン。(手元に映像がないため断言は出来ないけど)作画やカッティング、そして庵野が死ぬほど拘ったアングルも、その暴力性を後押ししていた気がする(逆にアヤナミ(仮)の方では作画が豊かで優しい。田植えがその最たる例)。んで、こういうのを観てると「まーたシンジが曇っちゃうよ」とか思うわけだが、シン・碇シンジはそうではなかった。周囲の "優しさ" に気付けるだけの視力は元々有していた彼だが(その上で見て見ぬ振りをするからこその "ガキ")、それを受け止められるだけの強さもまた、いつの間にか手に入れていたのだ。

彼が覚醒した("大人" になった)といえる明確なポイントはあるのだろうか。恐らくだが、出撃前のアスカとのやり取りはその候補の一つだろう。だが、あそこはあくまで答え合わせのシーンであり、大切なのはその前の "考えていた時間" ではないだろうかと思う。どちらにせよ、ド派手な戦闘シーンでもなければ激しく言い合うシーンでもなく、エヴァ的な不思議空間・不可思議カッティングで繋がれるシーンでもない。ドラマ的には前半のメインである第三村と後半のメインである南極・マイナス宇宙の間であり、クライマックス前の静かな部分・繋ぎの部分だ。実際に劇場で計ったわけじゃないが、恐らく尺的にもそこまでではないはず。でもこの作品の持つ "意味" を考えた時、すなわち『エヴァンゲリオン』との別れ・からの卒業・の終わり と言ったことを考えた時に、最も大切になるのはこのシーンではないかと思う。"碇シンジが大人になる過程" というのは、それだけ大きな意味を持つのではないか(というか『シン』自体がそういう作品だ)。

正直な事を言えば、色んな物・コトを受け止められる"強さ" を見せるシンジに、若干の違和感を抱いていた。やはりそこには "今までの碇シンジなら" というイメージが頭の中にあったからだと思う。でもシンジくんは、庵野から次々と投げられる怒涛の曇らせに対して、足を止めずに全て受けきった。

"今までのシンジくん" とシン・シンジくんの一番大きな違いは、「サードのその先を観たかどうか」じゃないかと個人的には思う。結局 "首絞め「気持ち悪い」" に着地した(してしまった) TV 版・旧劇場版と、カヲルに手を引かれて「その先」を観た(観せられた・観てしまった)新劇場版との違い。勿論、碇シンジ全肯定マン・渚カヲルがこの時点でまだ生存していたっていうのも大きい。

ただ、(ニア)サードインパクトの前後が分岐点となったのなら、それをもたらした要因というのは更に遡らなきゃいけないわけで。そうなるとやはり(既に幾千の考察がなされてるように)「真希波・マリ・イラストリアス」という結論に辿り着く。ついでに、『序』がほぼ TV 版のリメイク総集編だったのにも繋がる(マリ登場以前じゃそりゃそうなる)。

これも良くある解釈だが、庵野 = シンジ = ゲンドウ = カヲル、マリ = モヨコ、アスカ = 宮村 として観てみると、何ともいえないくらい自虐的・自嘲的・自傷的な作品に見えてくる。この辺の作り方とか、すぐ人類に絶望したりだとか、ロボットとか、実写とか、こういう点を踏まえると、やっぱり庵野からは師匠の宮崎より富野に似てる気がするんだよなぁ。

本作では碇親子のみならず、多くの人物に "落とし前" が突きつけられ、"卒業" に迫られる。アスカやミサト、回想ではあるが加持、そして今まで何かと別枠扱いだったカヲルにまでそれは及ぶ。一足先に "大人" になっていた鈴原夫妻やケンスケにも「見守る」という "大人" の役割が課される(リツコと冬月を含めても良いかも)。こういう総決算な描き方は、当然ながら一本の映画としては破綻してる作りなんだけど、「アニメシリーズの劇場版」という看板はそれを許してきた慣習があり、我々もそれを自然と受け入れている。90 年代以前に喧嘩を売り、ゼロ年代以降に大きな影を落としていったエヴァが、そういうアニメ史・映画史全体の大きな文脈に乗っかるというのもまた、面白い。何が面白いって、TV 版を "補完" する役割だったハズの旧劇で "喧嘩" を売りつけたという前科があり、『Q』でもまたそれを彷彿とさせるかのような(前作からの連続性を断つ)描写・語り口をしておきながら、『シン』では綺麗に「シリーズもの」としてまとめ上げた点だ。かつて文脈に喧嘩を売った作品が、今度は自らが作り上げた文脈を上手いこと締めた、といった感じ。
結局ここでも「庵野すげえ」という点に着地する。

 

 

 

 

なんか上手く文章を締められなかったんですが、こんな感じでした。
やっぱり『エヴァンゲリオン』という巨大すぎる看板は、私(達)の中に大きすぎる "爪痕" を残していて、
記憶喪失にならない限りは、その呪縛から逃れることなんて出来ないのでしょう。

新劇も(旧劇と絡めて)「外に出よう!」的な結論だと解く意見もありますが、個人的には、何だかんだで「DSS チョーカーは残している(捨てていない・マリのポケット行き)」という描かれ方をしてる以上、
「思い出として残る『エヴァンゲリオン』」については優しく肯定してるのかな、という結論に思えました。

 

いずれにせよ。
この偉大なる作品に出会え、その終幕をこの目で観られたということは、
やっぱり何だかんだで幸せなことだったなぁ、と思いました。