アイカツ! 10th Story ~未来へのStarway~ 感想

既に鑑賞から二週間以上経っているのですが、いつも通りファーストデーを利用して観てきました。

一言で言うなら "シン・アイカツ!" とでも言うべき内容で、
「卒業」や「別れ」といったトピックに対して、
実に "アイカツ!らしい" 筆運びで真正面から描ききった、そういうお話だったと思います。
今まで自分たちが積み上げてきたものを全力で信じて、使って、
アイカツ!』でしか描けない「卒業」を見事に描ききっていたんじゃないでしょうか。

 

カッティングやアングルを分析したり、設定から紐解いたり、そういう観賞もあって然るべきだし、実際私も鑑賞中はそういうモチベーションを持っていたんですが、いざ終わってしまうと「エヴァンゲリオンが終わった」という圧倒的事実の重さに殴られてしまうというか。巷では「私とエヴァの出会いは○年前~」みたいな感想を揶揄する風潮もあるけど、そういう書き出しになってしまうのも頷けるというか。

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一本の、単独の映画として観た時にどのような評価になるのか は正直わかりません。
何故なら私(達)はこの映画を単独の作品として鑑賞するには、些か時間を背負いすぎてるからです。

非常に面白い・感動を覚えたことは確かでありながら、
一方で単なる感動では終わらない、どこか自分の人生の一部に区切りが付いたかのような。
非常に複雑な思いを抱き、それでいてスッキリした気持ちにもなる、不思議な作品でもありました。

 

以下詳しく感想を書いていきますが、いつも通りネタバレ含むのでご注意を。
あとは当然ながらキャプ等も(過去の引用分以外)ないですし、
手元で映像確認出来るわけでもないので、描写等について間違っているかもしれませんので、あしからず。

 

 

 

 

これは既に方々で言われてることだろうが、何よりもまずはその構成に驚いた。
「卒業」そのものについてはほぼ語らず、22 歳となった "今" の姿を描く。
そのまま終幕まで行くかと思えば、回想という形で時間軸を戻す。
今までの『アイカツ!シリーズ』ではまず観られなかった構成だった。

 

前回の同時上映分を観て、今回は「卒業」についてガッツリ描くような内容を予想していた人は多かったのではないだろうか。かくいう実際私自身も、そういう内容になると勝手に思っていた。

©BNP/BANDAI, DENTSU, TV TOKYO

涙涙の卒業式回。個人的な嗜好だけど、学園が舞台の作品ではやっぱり卒業式のお話が一番好き。

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「学園モノ」にとって「卒業」がとても大きなトピックであることは言うまでもない(故に描かないという選択肢も出てくる)。『アイカツ!』を「学園モノ」として括っていいかと言われたら難しい議論になりそうだが、少なくとも彼女達の物語をスターライト学園が土台としてしっかり支えていたことは確かだ。そう考えると、10 周年かついちご世代(或いは『アイカツ!』そのもの)にケリを付けるというこのタイミングに、「卒業」というトピックを持ってくること自体は何ら不思議ではない。

正直、個人的には "そういうの" を期待してた節がある。
今まで大空あかりの、虹野ゆめの、友希あいねと湊みおの「卒業」を観ることは叶わなかった。だからこそ 10 周年というタイミングで、それも初代主人公のそれを観られるというのはこの上なく嬉しかった。卒業ライブに向けて彼女達が曲やドレスの準備をし、ともすれば何らかのトラブル(シナリオ上のドラマ)が起き、それを解決しつつステージを迎える、なんとなくそんな内容を想像していた。未来の姿の描写があるとしたら最終盤にちょろっと、そんな感じだろうと思っていた。

しかし『10 th』はそうしなかった。
正確に言うと「卒業」というトピックを選びはしたが、74 話とは全く違った筆致を選んだ。
「いい意味で裏切られる」というのはこういう事を言うんだろうと実感した。

 

(同時上映分も含めた)全体の構造は以下の通り。
178 話の続き → 卒業ライブの決定 → 22 歳での日々 → 回想で卒業ライブ → 22 歳での日々
とにかく驚きだったのは、"描く / 描かない" の選択だ。

基本的にステージ前の描写は説得力を作り上げていくものに対して、ステージ後の描写はその補完として使われるので

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ステージ前の描写が、そのステージの説得力の担保になるというのは、このブログにこれまで幾度となく書いてきた。勿論、例外となる話数はいくらでもある(『オンパレード!』なんかは作品そのものが例外だ)が、『アイカツ!』から『プラネット!』に到るまで採用され続けた基本構造であることには変わりない。だからこそ、いちご世代の、というより『アイカツ!シリーズ』全体の集大成とも言える本作で、この構成を捨ててきたのは本当に驚いた。

本作のステージは上述した通り「卒業ライブ」、即ち18 歳時点のものである。しかしその前に描かれる描写は 22 歳の日々であり、そこでの努力や頑張りは(18 歳時点の)ステージには関与しない。また、22 歳時の努力から直結するライブや舞台や卒業が描かれたか、と言われるとそうではない(※)。

アイカツ!』の基本構造におけるエピソードを、"頑張り" とそこから生じる "結果" に分けた場合、本作は
"22 歳の頑張り" と "18 歳の結果" を描き、
"18 歳の頑張り" と "22 歳の結果" を描かなかった(※) ということになる。
この描写の取捨選択こそが、本作の肝となる部分だなと感じた。


"描かなかった" "描かれなかった" というのは "画面に映らなかった" という文字通りの意味ではなく、"尺が割かれなかった" という意味です。"ダイジェスト処理 = 作品における比重が小さい" という解釈です。

最も比重が置かれてたのはどこか?と問われれば、"22 歳の頑張り" だろう。
ライブに、舞台に、卒業に向けて、苦悩し苦労し悪戦苦闘する日々をとにかく丁寧に描いてた。それでいて、その日々の頑張りが結実するはずの、肝心のライブや舞台や(あおいちゃんの)卒業式を描かないというのが、とんでもなく重くて面白い。

繰り返しになるが、従来ならここまでの描写を説得力の担保とし、22 歳時のライブへと展開していたはずだ。だが本作ではそうせず、回想という形で再び 18 歳の時間へとカメラを戻し、卒業ライブへと展開していく。そう、本作のステージシーンはエピソードの成長描写の成果物として描かれるのではなく、"22 歳の今" を前に推し進める為の燃料として扱われる。エンドマークとしてエピソードを締めるのではなく、未来へのリソースとして消化されるという役割を担っている。

 

『Signalize !』を皮切りに『アイカツ!』(現状)最後のステージシーンが展開していくが、それを支えるはずの "18 歳の頑張り" は描かれない。何故なら彼女たちは既に、178 話分の "頑張り" を積み重ねてきたのだから。卒業ライブは、22 歳時点での "仕事" とは違い、学園での "アイカツ" の集大成・延長線上にあるものである。そこに向けた取り組みは即ち TV 放送 178 話分の焼き直しに過ぎず、本作の(ある種挑戦的な)構成はそんな悠長な時間配分を許してはくれない。ファンサービス満載でノスタルジーに溢れた時間は同時上映分できっちりと締められ、"氷" の中にしまわれる。

卒業ライブが TV 放送分の集大成・延長線上にあるということは、それは "(作中概念の)アイカツ" と『(物語・コンテンツとしての)アイカツ!』の限界点であることも意味しているとも言える。22 歳の "仕事" がその先に存在するのならば、なるほど確かに『アイカツ!』で描くべきことではない・『アイカツ!』の枠内では描けないのかもしれない。

 

22 歳時空の描写はどこか生っぽい手触りを感じる。日々の苦悩を酒で洗い流し、他愛もない話に花を咲かせ、音楽をきっかけに高校時代の思い出に浸り、また日々の生活へと歩きだしていく。黄金の揺り籠の中でひたすら全力前進を繰り返して正解を掴み取ってきた学生時代とは違い、アルコールや思い出を燃料に "過去" に支えられながら "今" を歩んでいる彼女たちの姿は、あの頃の空気感を感じさせながらもどこか違うということをしっかりと描いていた。それは卒業から 4 年間の(或いは放送から 7 年間の)時間の厚みが成させたものであることは明らかだ。

受け取り方は人それぞれだろうが、個人的には得も言われぬ嬉しさを感じた。
アイカツ!』はこれまでずっと「綺麗事」や「理想論」だとわかりきってることを、それでも大声で誇りを持って叫んできた。それは児童向けのコンテンツとして本当に立派な姿勢であると思うし、その姿勢こそが「優しい世界」と称される楽園を築き上げ、コンテンツ全体の魅力に繋がったのは言うまでもないことだ。
一方で、そこがどこか遠い世界であるように感じてたのも事実だ。(遠いからこそ価値があったとも言えるが)黄金郷の輝きは僕らを照らしてくれてはいたが、僕らは決してそこの住人ではなく、彼女たちは別次元の遠い存在であった。

無論、本作もまたその楽園的世界観だったとしても、僕らは不満を抱かなかっただろう。何故なら『アイカツ!』とはそういう物語であると知っているからだ。

それに対して "明るい闇鍋" パーティや高校時代の思い出に支えられてる様子というのは、幾分か僕らの世界に寄り添ってるようにも思えた。その生っぽさを伴う描写にどこか(今までとは異なる)親しみやすさを感じた。それでいて『アイカツ!』っぽさが失われたわけでもない。"どこが" と言われるとなかなか説明が難しいが、小気味好いテンポで細かなギャグが折り混ざるトークからは、かつて僕らが夢中になった『アイカツ!』独特の空気感が確かに感じられた。そしてそれは、あの闇鍋がかつて夢見た楽園から地続きになってることの証でもあり、だからこそ先述の生っぽい手触りの描写と合わさることで、なんというか、彼女たちもあの楽園も実はそう遠くない場所にあった・いたんだという感覚になれたのが、とても嬉しかった。そしてそれは、女児をメインターゲットにしていた 7 年前には描くことの難しかったことじゃないかと思う。あれから多くの月日が経ち、良くも悪くもあの頃とは同じではいられないと多くの視聴者が感じる今だからこそ、描くことが出来たことのように思えた。

 

繰り返しになるが、本作ではステージパートを回想として扱っている。
"過去の栄光に浸る" と表現すれば、それは『アイカツ!』らしからぬ後ろ向きな感じをさせる。ともすれば、本編中で説教されてもおかしくないレベルだ。
でも本作は「それでもいい」と言ってくれる。たまには足を止めて、羽を休めることを肯定してくれる。
何を隠そう、Soleil の 3 人でさえ『MY STARWAY』を聴いていたのだから。

新劇も(旧劇と絡めて)「外に出よう!」的な結論だと解く意見もありますが、個人的には、何だかんだで「DSS チョーカーは残している(捨てていない・マリのポケット行き)」という描かれ方をしてる以上、 「思い出として残る『エヴァンゲリオン』」については優しく肯定してるのかな、という結論に思えました。

【ネタバレ含】シン・エヴァンゲリオン 劇場版 𝄇 感想 - アニメ雑感記

"過去の自分が今の自分を支えてくれる" "今の自分が未来の自分を支えてあげる"
今まで培ってきた基本構造をぶち壊してでも、本作はこのメッセージを訴えかける。
思い出を、思い出として大切に扱うことを肯定してくれる。
その上で、未来へ向けて一歩踏み出す尊さを教えてくれる。

"また会うのが楽しみになる" というのは希望の言葉でもあると同時に、ある種の脅迫・呪いでもある。
僕らは今後も長い人生を生きていく中で、数え切れない苦悩や苦労を経験していくだろうが、その道の先には『星宮いちご』がいて、その輝きで道を照らしてくれている。
しかもそれは遠い黄金郷からの光ではなく、僕らの世界のすぐ側にあるものだ。

星宮いちご』は決して完全無欠最強無敵のアイドルではない。
彼女だって悩んだり、行き詰まったり、立ち止まったりする。
でも『星宮いちご』には魂を分かち合った分身がいる。それも 2 人も。
そこが『神崎美月』との最大の違いである、というのは『大スター宮いちごまつり』で描かれた通りだ。

©BNP/BANDAI, DENTSU, TV TOKYO

WM と LMT の決定的な違いは、"2 人がいつ出会ったか" という点だと思う。 美月さんもみくるさんと SLQ になった直後等に出会えていれば、『神崎美月』として確たる存在になる前に出会えていれば、或いは星宮いちごより先に出会えていれば、人間として・少女としての人格を有したままで『神崎美月』でいられた世界があったのかもしれない。勿論これはただの妄想でしかないけれど。

劇場版アイカツ! 感想 - アニメ雑感記

©BINARY HAZE INTERACTIVE Inc.

『神崎美月』でいることに疲れた美月さんは、その思いをいちごちゃんにぶつける。それをすぐあおい・蘭の 2 人に相談できるのが、そのまんま "神崎美月と星宮いちごの違い" だろう。そしてそれは、いちごちゃんが『神崎美月』と同じ轍を踏むことはない ということの暗示でもある。

劇場版アイカツ! 感想 - アニメ雑感記

だから彼女は  "頑張り続ける" という道を歩んでいける。
僕らは 178 話の物語を通して、それだけの信頼感を彼女に抱いてしまっている。
だから僕らも彼女に続かなければならない。頑張らなければならない。
"今度会う時" を楽しみにする為に。

続編があるかどうかは、わからない。というか、常識的には厳しいと考えるのが妥当だと思う。
それでも、例え『シリーズ』最後の作品になったとしても、"未来" に向けて約束をするという強さ。
この徹底した前進主義こそまさしく『アイカツ!』であると感じた。
その為なら "178 話分の集大成である卒業ライブ" でさえ回想("氷")の中に押し込めるという采配も潔い。
"過去の自分が今の自分を支えてくれる" "今の自分が未来の自分を支えてあげる"
アイカツ!』という作品自体がこのスタンスを貫こうとする気概さえ感じる。

思い出は未来の中に 探しに行くよ約束 (カレンダーガール 作詞 こだまさおり)

未来向きの今を キミと走ろう (START DASH SENSATION 作詞 こだまさおり)

だからこそ僕らは『アイカツ!』に、『星宮いちご』に手を引かれる形で、
楽園であり黄金郷であり、『氷の森』であるこの 10 年間から、前に進まないといけないのだ。

 

以下、ちょっとだけ雑感。
本作のドラマの中心はいちごちゃんよりも蘭ちゃんのように感じた。
今までの延長線上のいちごちゃん、余り画面に映らないあおいちゃんに比べて、蘭ちゃんの "違う分野に飛び込んだからこその躓きに苦しむ姿" っていうのは『アイカツ!』に普通にありそうなお話だからだろうか。
そう考えると、ナニガワ先生からの "積み上げるのはもういいからもっと壊せ" というアドバイスにも、どこかメタい意味合いを感じてしまう。実際に積み上げたものをぶっ壊して出来てるのがこの作品なわけなので。

 

髪型チェンジ、ネット上では特にあおいちゃんの姿が話題になっていたが、
個人的に一番衝撃を受けたのは美月さんだった。

後半はまんま WM のお話。事前に美月がかえでとユリカに事情を話している描写が好きだ。『いちごまつり』を経て、彼女はもうすべてを一人で背負うことはなくなったんだということがわかる。

アイカツ! 166-178 話 感想 - アニメ雑感記

面白かったのはいちご世代が中心となるお話なのに、美月さんが全く絡んでこないところ。 『神崎美月』依存からの脱却をなし得てる、何よりの証拠。

劇場版アイカツプラネット! / アイカツ! 10th STORY 感想 - アニメ雑感記

いうまでもなく本作の美月さんは『いちごまつり』を経た美月さんであり、『神崎美月』の鎧(或いは十字架)を脱いだ(下ろした)美月さんだ。『あかり GENERATION』でも何度かそういう描写はあったが、髪型を変えるまでには至ってなかった。それが今回ではガラッと変わっていて、「あぁ、本当に彼女は『神崎美月』から解放されたんだな」というのを実感できた。作中のドラマ的に全然重要な立ち位置でないところも逆にいい。彼女はもう物語を一人で牽引する重責を担わなくていいのだ。真に『アイカツ!』が『神崎美月』の下から「卒業」したのだなと感じた。

 

 

 

以上、『アイカツ!10th Story ~未来へのStarway~』の感想でした。
後半はただの妄想とポエムのオンパレードとなってしまって、感想と呼んでいいのかわからないですが。

 

アイカツ!』が終わることは間違いなく寂しく、悲しいです。
本作を鑑賞した後も、その思いは湧き上がってきました。

ただそれだけではなく、同時に何かスッキリした感じがしたのもまた事実です。
それはやはり『アイカツ!』という作品が第 1 話から本作に到るまで、
その前進主義を失うことなく貫き通したからじゃないかな と思います。

 

10 年という時間は決して短いものではなく、僕自身も、『アイカツ!』というコンテンツの置かれた状況も、10 年前とは全く変わってしまいました。
それに伴って、僕と『アイカツ!』の距離感や付き合い方もまた、色々と変わっていきました。
本作は、"そんな変わったモノも変わらなかったモノも優しく包み込んで……――"
みたいな作品では全然ありませんでした。

あの時と変わらず、"未来向きの今" を全力で描く。
その為なら、今までの物語を全て氷の中に閉じ込めてでも描く。
そういったある種暴力的とさえいえる、とても強い矜持をヒシヒシと感じる作品でした。

それでいて "また会えた時" に約束をするという強さと優しさ。
10 年前に僕が好きになった『アイカツ!』と同じ輝きがそこにはあったし、
或いは 10 年間で初めて『アイカツ!』の本質に触れた気にもなりました。

 

10 年後はどうなってるかわかりませんが、それでも『アイカツ!』は好きなんだろうな
と思わせてくれる、そんな作品でもありました。
星宮いちごちゃんとまた会えるその時まで、頑張らなきゃな、と思いました。

 

さようなら、『アイカツ!』。ありがとう、『アイカツ!』。
また会うその日まで。